新島ガイド 史 跡
     

  三松山長栄寺

       

日英上人が熱心な布教活動の末に真言宗の島を改宗させ応永22(1415)に一島一宗、日蓮宗への統一を制し開祖しました,抗火石造りの山門をくぐり境内に入ると正面に本堂、右横に鬼子母神堂が建ち、右手奥には共同墓地が続きます。
 


 十三社神社

      十三神を集めた総社で、事代主命と同系12神を祀る神社です。本社は本村の中央部にありましたが、慶安2年(1649年)の大火により消失し、現在地に転社されました。

 現在の建物は昭和8年(1933年)から15年かけて、新築造営されました。境内は広く、規模としては伊豆七島随一です。また12月8目の例祭の神事「神楽」(かぐら)「獅子木遣」(ししきやり)は都の無形民俗文化財に指定されていて、特に「獅子木遣」は、木遣を音頭に5人1組で雌雄2頭の獅子が舞う大変珍しいものです。 

 

  観音様 

      

鎌倉時代に黒田彦左衛門という落武者が前浜海岸に漂着し、その時守り本尊として持ってきたのが、ここに祀られている観音像であったと伝えられ、毎年8月10日に開帳されています。

 どんな日照りにも枯れたことがないという「里川の水源」と呼ばれる湧き清水があります。また門を入った右側に子宝に恵まれるという小さな社が、観音堂の裏には長寿観音があります。 


 為朝神社

          保元の乱(1156年)に敗れた源為朝は若干18歳で伊豆大島に流刑され、のち新島に逃れ、羽伏浦海岸に上陸したと言われています。庄屋土屋平左衛門(現在の青沼家)の娘丹千代を妻として一子を設けましたが、子の顔を見ずに自画像と神息(かみひろ)の刀一振リ、二幅の絵を残して八丈島に渡りました。現在でも八丈島船出の十三夜にあたる旧暦913日に祭礼が行われています。

      伝説によりますと羽伏浦海岸に上陸した際、雉子の道案内で村にたどり着き、当時の庄屋土屋平左衛門のもてなしを受けたと言われています。

 

  大三王子神社
     NTT無線中継所の正面向かって左脇を抜けていくと近道です。祭神は事代主命の第三王子で伊豆七島の開祖といわれています。父とともに漁の神様として島民の尊敬を集めてきました。そのためか、石段はすっかり擦り減っています。

 社務所から本殿にいたる最後の石段は履物を
はいて上がることは禁止されてい
ます。

 頂上の社殿は明治8年(1875年)に改築

されました。 


 共同墓地

     共同墓地は近年までは朝夕の墓参りと墓の手入れは嫁の仕事で毎日欠かせない日課でしたが、現在はお婆さん達が手入れをするようになりました。羽伏浦海岸の白砂が敷き詰められ、また、四季の花々に彩られ、墓地とは思われぬ明るい景観をみせています。

                                   
  墓地内には[比翼塚]といって、昭和8年(1993年)1月29日東海汽船菊丸の特別室船内で、両家の身分の差から一緒になれない儚さから心中した、川村博章、奥村雅子の若い男女の死を哀れみ、島民達が埋葬して、冥福を祈るための塚などがあります。 

 

 
  流人墓地
    新島は流人たちの歴史とともに歩んできた島でもあり、1968年(寛文8年)〜1871年(明治4年)まで約200年の間に流された流刑者は1,333人にも及びます。

共同墓地内の一段低い場所に墓石が118基並ぶ流人墓地があります。これは流刑中に死亡した流人で、その階層は武士から非人まであらゆる職業にわたリ、服役中に学問、技術を島民に教えるなど文化寄与をした流人もいましたが、日々の憂いを酒や賭博にまぎらわした者も少なくありませんでした。そんな彼らを偲び仲間達が、生前に酒を好んだ者には酒樽型、賭博が好きだった者にはサイコロ型の墓石をそれぞれ造ってあげたということです。共同墓地と比較すると一段低くなっていますが、罪を犯した者と犯さない者との区別をはっきりつけるという、この時代の厳しい掟であった事でしょう。

 

  上木甚兵衛の墓(飛騨ん爺)
     飛騨高山の名主、上木甚兵衛は農民一揆(大原騒動)の主謀者として、安永4年(1775年)62歳で新島に流され安政10年(1798年)8月19日に85歳で病没しました。

甚兵衛の二男勘左衛門は、父の流罪後その看護を志し、許されて寛政3年(1791年)来島し、8年間孝養をつくし、甚兵衛の亡き後帰るに当たり、せめて心だけでも父の傍にありたいとの願いを込めて自分の合掌像を刻み、中に自ら写経した法華経8巻を納めました。甚兵衛親子の徳と孝心をたたえ墓所も他の流人とは区別され、村民と同じ静かな一隅が与えられました。勘左衛門はその在島中「天明水滸伝」「伊豆七島風土細覧」を著作しました。新島ではこの墓を「ヒダンジイの墓」と呼んでいます。

  くもの巣に かかりて二度の 
                                             落ち葉かな
  
 

            

  向畑刑場跡 

     流人として服役中に再び罪を犯した(殺人や放火等の重罪)者を処刑した所で、処刑者は11人と公記されています,墓地の東側に「自縁信士」と刻まれた歌舞伎「夜話情浮名横櫛」で有名な「コーモリ安」の墓もあります。

処刑者は11名と公記されているが墓石は81基程あり、島の役人調書では「自滅申し付ける」という形で「病死」として始末をつけたものと考えられています。尚、処刑者の刑法は縛り首であり、好みの場所に自分で穴を掘ったと言われています(昔話より)、また処刑に使った松の木は昭和50年頃までありましたが、松食い虫に侵され枯れてしまいました。
 島の住人は自分の家に仏事法要があるときなどは、これらの無縁仏にも塔婆を上げ、花を供える供養を忘れずに行っています。

  
  
  流人牢屋跡と見返り柳

 

   
「新島流人帳」によると、寛文8年(1668年)〜明治4年(1871年)までに配流されたものは1,333人と記されています,このうち死刑が決まった重罪の流人は、ここにあった牢屋に入れられ、処刑当日は柳の下にむしろが敷かれてそこに引き出された流人に、この世の最後のはなむけとして酒や団子がふるまわれました。刑場へひかれて行く受刑者は、坂の途中で決まって立ち止まり風にそよぐ柳を見返り、涙したと伝えられています。
この柳の木は昭和50年頃、寄る年波に耐えられず老枯れしました
 
 
 
  謎の榎

     無実を訴えながら寛政10年(1798年)処刑されていった流人 清右衛門が「自分は無実である、その証に法燈塚に榎を生やす」と言い残し、刑場の露と消えました。後年、墓石の間から生えたこの榎は怨念の榎として語り伝えられています。清右衛門は豆腐一丁取ったと言う罪で処刑されましたが、自分は誰も居なかったのでお金を置いて豆腐をもらってきたと言い続けたそうです(昔話より)。
 この柳の木は昭和50年頃、寄る年波に耐えられず老枯れしました。
 


坊が墓(天宥法印の墓)
  
     出羽国羽黒山の第50代別当であった天宥法印は、宗教上の争いや領主との争いによって寛文8年(1668年)一番最初に新島に流された流人です。この時すでに75歳の高齢でしたが島民に読み書き、そろばん、それに本土の農耕技術を教え、島民に慕われました。羽黒山の三山神社の宮司によって昭和13年(1938年)正式に天宥法印の墓として確認されました。
 
   無玉や 羽黒にかへす 法の月
                    (松尾芭蕉) 

昭和59年(1984年)山形県羽黒町と新島村が友好町村盟約締結し現在に至る 


獄門塚(現在の新島高校下)

  
     

 この碑には「刃」という字のついた戒名が九つ刻んであります。享保3年(1718年)流人九名が島抜けを企てて捕らえられ、極刑のさらし首にされた所です。それから35年後に同じ流人の「久松」が処刑された9人の供養にこの碑を建てたといわれています。 
 

 
 海軍墓地(平和を誓う丘)
 
     大戦が激化した昭和202月度重なる爆撃で食料が尽き餓死寸前、絶海の孤島硫黄島(新島でも3名戦死)で、食料や弾薬を待つ友軍の陸海将兵を支援するために、第16号輸送艦(1,800屯、速力22ノット)は横須賀を出港し決死の航海に挑んだ。

 前進基地の小笠原父島を出港して明日は硫黄島、千鳥が浜に突入しようとした前夜(214)16号艦に敵大艦隊が北上につき、急ぎ横須賀に帰還すべしの命令。2月16日午後、三宅島を過ぎる頃、米艦載機約200機と運命の遭遇、突 如雲間にグラマンの大群が7機編隊で16号鑑に急降下して機銃弾の総攻撃を受ける。16号鑑も果敢に交戦し7機撃墜、3機撃破したが約40分間の戦闘で、砲術科員に死傷者続出、新島前浜沖にたどり着いたときには戦死者23名、負傷者71名、戦死者の中には艦を守るべく、上甲板で砲撃を続けた16歳の若い命もあった。 

     弱い西風の吹く寒中の黒根の砂浜に、毛布に包まれた無言の戦死者たちが上陸したのが夜10時、若くして国に殉じ、艦内に散った英雄達は警防団を主とした新島村住民と、駐屯中の陸軍将兵らの手によって、この丘に手厚く葬られた。そして数年後に慟哭した家族の待つ故郷に帰還した。
 昭和20年秋、強制疎開から島民が帰島して、この島に再び平和が戻った。

 それから半世紀、何世代かのたゆまぬ努力によって、現代の新島を築いたのである。その20世紀も終わり、新島村住民は、この丘から21世紀に向かって永遠の平和を誓うのである。


  吃安親分島抜け

             甲州武居の中村安五郎は通称吃安(どもやす)と呼ばれ縄張りの争いから人を殺傷したことと
            大名行列をまねて箱根越えをしようとした罪で嘉永4年(1851年)新島に流されました。贅沢な
            暮らしが身についている安五郎に島の生活が耐えられるわけがなく、島抜けを計画し名主吉兵衛を
            殺し、銃を奪い、地元の漁師を水先案内にし、伊豆網代へ向かいました。
後に故郷で再び捕らえら
            れ、縛り首になったということです。


  上平主税の歌碑

     上平主税は大和十津川の郷士でしたが、参議 横井小楠暗殺事件の一味として明治3年(1870年)に流刑されてきました。
 明治8年、島では天然痘が伝染流行して、多くの死者が続出しましたが、この時、医術にたけていた主税は島の人たちを何とか助けたいと思い「種痘自訴書」を島役所を通じて足柄県庁に訴願しました。許されて、上平主税の手によって種痘が行われ、村民を救いました。
 この他にも産婆術を教えたり、寺子屋を開いて教育を行い島民の為に尽くしたということです。

 明治4年に流刑制度が廃止されるまで医師、教師として島民の為に尽くし、明治政府の大赦免によって明治11年(1878年)赦免となった。
 島を離れる際に島で死亡した流人達の供養塔を建て、その裏面に

大御代の恵みにもれぬ民ならば、
              あしきをよきにかえせ罪人
                         と歌を刻みました。

  
 

  伊能忠敬の測量起点

 文化12年(1815年)江戸時代の測量士、伊能忠敬は全国を測量した後、伊豆諸島の測量を行いました。すでに高齢であった為に直接は現地に来ませんでしたが忠敬が自ら考案した測量器具や測量方法を弟子達が使用して江戸から指揮をとりました。

 翌年弟子たちが資料を持ち帰り、忠敬白身がそれを割り出し麓図(ふもとず)という図を完成させました。その後大正時代(19121926年)に撮影された航空写真と比較しても海岸の浸食以外は寸分のくるいも見受けられない程完成されたものでした。その証拠に明治(1868年〜1912年)になりイギリスから測量技師達が来島しましたが測量した地図のあまりの見事さに絶賛し、我々が測量する必要はまったくないと、語って帰ったということです。

 

  謀計網の碑

     
 当時行われていた漁業法には棒受網(丸網)・地引網・楯網があり、島民であった植松三郎平は、それまで使われていた丸網を改良し続け嘉永元年(1848年)に完成させました。
 人騒がせの不届き者として島役人の妨害にあいましたが実際に漁に出たところ、この網が大変優れていることがわかりました。万福網と名付けられたこの網は、謀計網(ぼうけあみ)と言われるようになり、棒受網として全国に普及されています。
  

海難法師(カンナンボーシ)

 江戸時代伊豆の島々は天領で韮山代官所の支配下にあった、この代官所に悪代官がいて、その代官が島々を巡察して廻っていました。代官は大島の巡察が終えて新島に向かうことになり、一行の船が途中まで来た時、代官を憎む若者たちが船底の栓を抜いて船もろともに代官を沈めてしまいました,

 その後、その日になると沈められた代官の亡霊が海を渡り、島民に害を加えたので島民は恐れ、この日をカンナンボーシとよんで物日とし難をさけるため行事をするようになった。この日1月24日はトベラの小枝を戸口(玄関)にさして、餅を食べ早寝をする習慣となっています。

 本村5丁目山下仁左衛門、同1丁目前田七兵衛の両家は祠を建て祀っています。

  

  原町の井戸
 
     本村最古の井戸で正徳5年(1715年)近隣の民家10戸が、モヤイ(もええ)作業で掘った井戸で地表78m掘り下げ平地を作り、更に4m掘り抜いた変わった形をしていて別名「まいまいず井戸」と呼ばれています。

 これは井戸の作りが渦を巻いていて丁度(カタツムリ)に似ているところから、こう呼ばれるようになりました。この井戸ができるまでは、雨水のみをたよりにしていたということです。古い井戸の形式は「つるべいど」といい、長いさおの先に10ℓぐらい入る「おけ」(つるべ)をつるして井戸水をくみ上げる方式でした。はねつるべ井戸、くるま井戸そして大正から昭和にかけてポンプ井戸に改修されていきました。
 


     

 大正10年(1921年)頃よりポンプ井戸の普及。


 昭和37年(1962年)若郷簡易水道始まる。


 昭和46年(1971年)本村簡易水道始まる。


 昭和51年(1976年)新島から式根島に海底送

           水始まる
 


 

  島について お寺の清水うまかりしこと   (大正8年 萩原 井泉水)

                     萩原 井泉水は新島小学校の校歌を作詞した。


    ※ モヤイ
もええ新島の方言で「力を合わせて何かをする」という
                  意味があります。


                        

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